はじめまして、えいじです。1971年に神奈川県横浜市で生まれ現在49歳の会社員です。
現在、Twitterで「中高年のTwitter運用」と称して、これまでの挑戦や今後中高年の方向けにどのように運用していくのが良いか等を発信について挑戦を継続中。
Twitter開始から約1年で、1万人のフォロワーと繋がることができました。またもう一つ別のTwitterアカウントを運営しており、こちらも約9,600人と間もなく1万人を達成します。
その他、マイクロソフトが運営するビジネス系SNSのLinKtInにおいても、同じく開始から約1年で約9,900人と、もうじき1万人の繫がりを達成予定。
日々努力と改善を続けた結果、SNSでの総フォロワー数がもう少しで3万人というところまできました。
これも一重に素敵な方々と交流することが出来たお陰と感謝しています。
他には副業にも挑戦し、WEBライターとして活動していました。何もないところから実績を積み重ね、最盛期には1か月で10本以上の記事を作成し、納品していました。
経歴としては、1995年に大学を卒業して、新卒として大手外食企業に就職し会社員人生をスタートしました。その後転職を繰り返し、現在は物流倉庫にて勤務。
日常生活では、SNSでの仲間とのやり取りが最も充実していると感じています。特に自分が投稿した記事に対して、共感のメッセージを頂いた時などは堪えられない嬉しさに包まれます。
SNSへ投稿する魅力は、多くの人に自身の考えや文章を見てもらえることで、たとえば、励ましや応援、共感の投稿をすると多くの人に届き、その言葉で立ち直る人も多い。
私は、自分の投稿で勇気を貰った!感動した!そんな言葉に支えられてここまで続けてこられました。
同じ悩みを持つ人や同じ目標に向かって共に努力し合うことは、現実社会ではなかなか難しいことです。まして私のような40代後半の中高年にとってはなおさらです。
しかしTwitterではそれが可能です。そんな楽しさがTwitterをはじめとするSNSにはあります。
また、顔が見えない匿名性があるからといって批判的な記事や返信を行ってはいけません。現実社会と同等の配慮を持って付き合う必要性があるといっていいでしょう。
SNSで成功した暁には、人生を賭けた夢としてキャンピングカーを購入して日本を1周したいと、夢の実現に向けて奮闘中。
その様子をyoutubeなどにアップして自身だけでなく、多くの人と楽しみを共有できたらと感じています。
これから私がどんな理想を描いてどのような夢を持ち、今後どうしていきたいかについて展開させて頂きますので、そんな私の人生について、少しお話させて下さい。
Contents
幼少期の苦悩~妹の死別
はじめに、私が幼少期に体験した一番悲しい出来事からお話させて下さい。
1981年、小学4年生の頃当時10歳だった私は、最愛の妹と死別しました。3歳差で年齢も近く、5人兄弟の次男だった私と長女だった妹はとても仲が良かった。
当時は不治の病を言われた白血病を罹患し、2年に及ぶ闘病生活の末僅か7歳で亡くなってしまいました。
父は日々元気なく仕事に向かい、母は連日病院に通い詰めていたあの頃…
妹の告別式の際、父が涙ながらに妹の名前を呼びながら顔を撫でていたことは今でも忘れられません。
両親が共に忙しく夜自宅にいない時は、近所の人に夕食を御馳走になったり、親戚の家に泊まった事もありました。
そんな寂しい生活を幼少期で過ごしていましたが、「妹の病気が早く治って、また一緒に遊びたい」と感じていました。
そのため、当時は妹が亡くなるとは夢にも思わず、いつか元気になってまた一緒に遊べる日が来ると信じて疑わなかった10歳の頃…
それがまさか亡くなってしまうとは…「どうして、こんなことになってしまったんだろう…悲しすぎる!」と思いました。
まだ幼かった私はショックを隠せなかった。
一時は学校へ行くのも嫌になる程落ち込み、何もやる気が起きないなど深刻な状態に陥っていた私を、当時の担任の先生はいつも気にかけ、声をかけてくれました。
しかし心の整理がつかず、しばらくは立ち直るきっかけすら掴めない状態が長く続いていた…
立ち直るきっかけをくれた少年野球
どん底の状態にあった私が立ち直ったのは少年野球のおかげでした。
妹が亡くなる1年前の1980年から、野球をはじめました。兄が野球をやっていたことや、太りやすい体質であまり外で遊ばない内向的な性格だった私を心配した両親の勧めがきっかけ。
私の住んでいた地域ではトップクラスの実力を持つ強豪チームで練習も厳しかったです。運動神経が悪く大人しい私はいつも監督やコーチに怒られて、嫌々練習に参加した日々。
そのため、野球を好きになれない状態でいつも練習に参加していました。
妹が亡くなってから1年以上が経過した1982年のある日、この試合に負けたら先輩たちとお別れしなければならない大事な試合で、ある出来事が起きます。
1点差で負けている最終回のツーアウトから何と監督が私を代打に送ります。「代打、えいじ!いってこい!」と告げられました。
「なんで、こんな大事な場面で私を代打に?」
当時はまだレギュラーの実力はなく、補欠だった私をなぜ監督が代打に送ったのかは分かりませんが、これまでにない程緊張したのを覚えています。
同時に「最後のバッターになってたまるか!」と今まで経験したことの無いほどの集中力を発揮し、何とかフォアボールを選ぶことができました。
これをきっかけに味方が奮起し何と逆転サヨナラ勝ちを収めた!やった!
この時チームメイトや監督・コーチから「よっしゃ!えいじ!よくやった!」と手荒い祝福を受けたことが何よりも嬉しかったです。
これを機会に野球を好きになった私は、更に厳しくなった練習に耐え抜きました。
これまで以上に野球へ情熱を注ぎ上達したことで、レギュラーの座を掴む事に成功。
同時に野球に打ち込むことで、妹の死というつらい過去を乗り越えた!
30代で勤務していた会社が倒産
その後、中学を卒業する1986年まで野球を続け、ここで学んだチームワークや最後まで諦めない心は、私の人格形成に大きく影響しました。
1987年に神奈川県内の普通科高校へ進学、ここでは特に部活動を行わなかった。
接客のアルバイト等を行うことにより、苦手だった人付き合いや人と話すことを克服することに注力。
1990年の大学入試に失敗し、1年間の浪人生活を経て1991年、千葉県の私立大学経済学部に合格し進学。平成3年、バブル経済が崩壊した時期と重なります。
大学時代はアルバイトとコンパに明け暮れたため、大学1年時はあまり単位が取れず苦戦しました。
しかし、2年時、3年時で挽回に成功。
4年時は就職氷河期と言われていましたが、早い段階で大手外食企業への内定を獲得できました。
1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件など大きな出来事があった1995年の新卒で大手外食企業へ就職。
約6年勤務した後の2001年に29歳で大手ノンバンクに転職しました。
それまでは現場仕事で会社員として知らないことが多かった私は、ここで会社員としての必要な事柄を学ぶことに注力。
収入も安定し、仕事も順調だった2010年の9月、突然会社の倒産が発表されました。
勤続10年目で残りの人生をこの会社で頑張ろうと決めていたので大変なショック!
「私の人生は、この先どうなってしまうのだろうか?」と不安に思い、これからの人生をどう生きていこうかと途方に暮れてしまいました。
約15年の安定した会社員人生はここで終わりを告げます。
挫折を繰り返した40代前半
忙しいながらも充実し、安定した15年間の会社員人生から挫折を繰り返す厳しい人生へ転換したのがこの頃からです。
大手ノンバンクを退職後、2011年の4月、約2か月で新しい勤務先のセキュリティ機器の営業職へ転職しました。この時に東日本大震災があった影響により、入社が1か月遅れました。
この会社では主に自社で開発した、オフィス向けや家庭向けの防犯機器を販売する仕事で私は主に代理店開拓を行う法人営業に明け暮れる日々。
しかし、ここは連日朝8時から夜は終電近くまで勤務し、上司からのパワハラが横行していたため、「この会社は、何かがおかしい」と感じ、2011年の7月、わずか3か月で退職しました。
2011年の9月、2か月後に今度は家族の紹介で大手運送会社へ配送ドライバ―として転職に成功。
ここでは入社してからドライバ―になるまでのテストがありますが、私はこれに合格することが出来ませんでした。
「なぜ、こんなに一生懸命やっているのに上手くいかないんだろう?」当時はそう考えていました。
またそれまで事務仕事中心だっため、重い荷物を運ぶのに四苦八苦しなかなか慣れることが出来ず、苦しい日々。
そのようなことが重なり、入社後半年で契約社員に格下げされてしまい、大幅に収入が減ってしまったため2012年の5月に退職しました。
2012年の6月、知人が経営する会社を手伝って欲しいと言われ、広告代理店の法人営業に転職。
この会社は主に求人広告を扱っており、ここに掲載する企業を探して営業を行う活動で厳しい職場でしたが、やりがいもありました。
この時42歳で、退職後の3年間で3回も転職を繰り返すなど、挫折した人生へと転落してしまいました。
多額の借金を背負う
知人の会社に勤務する中で、「資金的に厳しいので支援してほしい」と申し出を受けました。その中で一度は私も応じたがその後も頻繁に相談されるようになっていく…
給料も未払いが続いたある日、再度相談をもちかけられて断ると、第三者を使って脅されるようになりました。
この時点で何か行動を起こしていれば良かったのですが、次の仕事も決まっていなかった為、この時点では何も出来ず結局借金を積み重ねてしまう。
金額としては給料未払い分も含め約1,000万円。42歳にして転職4回という現実…途方に暮れるとともに、私の人生が終わってしまったと痛感しました。
仲間との出逢いとふれあい
信じていた知人に騙されて人間不信となってしまった私は、それでも何とか仕事をしなければと2013年の2月、次の転職先を決めました。
都内のタクシー会社へドライバーとしての再出発です。
毎日暗い顔をして、借金返済の為日々の食事にも困る生活をしていた私に、会社の先輩が「元気ないけど大丈夫か?今度飲みにでも行こう!」と言ってくれた。あの優しさを忘れない!
また、タクシー会社のリーグ戦が行われている草野球に誘ってくれたりしました。
その後食事や飲みに連れて行ってくれたりと、つらい時期を過ごしていた私に先輩や同僚が優しく声をかけてくれた。どんなにうれしかったことか!
その優しさに触れて、人間不信だった私も少しずつ心を開くようになりました。
同じころ、タクシー会社労働組合の役員に選任され、新聞記事の作成や学習会、組合員へのインタビューなど通常の仕事以外にこれらの仕事を受け持つ多忙な日々。
他にも経営者側との団体交渉の立ち合いや、新規組合員入会への説明、事故を起こした組合員の相談に乗るなど仕事内容は多岐に渡り、忙しいながらも充実した日々を送っていました。
新たな挑戦をする決意を固めた40代後半
タクシードライバー・労働組合の役員という二足の草鞋を履く生活を続けて2年が過ぎた2017年、ふとある考えがよぎりました。
このままこの生活を続けると労働組合の幹部となり、更に忙しくなることでタクシードライバーとしての仕事を続けるのは厳しくなるだろうと。
そしてそれは果たして私が望んだ道なのかと。
また、タクシードライバーは歩合制賃金のため毎月の収入が不安定で、このまま継続して将来性はあるのだろうかと考えました。
都内在住ならば個人タクシーという選択肢もありましたが、私は神奈川県在住だったため、この道は選べませんでした。
労働組合の仕事で様々な経験を積んだので、これを他の仕事に活かせないだろうか?そのような考えがよぎる日々。
このため、タクシー会社に勤務し、労働組合の活動をしながら転職活動を行うというかなり忙しい生活を約1年半送りました。
その間も仕事や労働組合の活動は一切の手抜きなく、妥協せず行ったので多くの人の信頼を得ることに成功した。
46歳からの転職活動はかなり厳しく苦戦しましたが、何とか次の転職先を決めることが出来、2018年の6月、約5年4カ月勤めたタクシー会社に別れを告げました。
※実際の転職活動を記載した記事
ハイヤー運転手に転職したい45歳の現実…諦めなければ道は拓ける
副業への挑戦
2018年6月、次の勤務先は物流センターのフォークリフト運転手です。最初は全く運転できませんでしたが、少しずつ練習することで乗れるようになっていきました。
他にも検査に来た公的機関の検査立ち会いや商品の重量計測など様々な仕事を行う毎日。
最初の1年は仕事が忙しく、残業も多かったため帰り時間はとても遅かったのを覚えています。いつしか仕事に慣れて1年目を過ぎた頃に部署異動となりました。
新たな部署は、残業も少なく時間に余裕のある仕事が中心。
そのため、毎月の残業時間がそれまでの月平均30時間から約5時間と大幅に減少する。
最初はそれも仕方ないと諦めていましたが、いつしかこの空いた時間を活かして何かできないだろうか?と考えるようになりました。
そして副収入を得られる副業をしたいと本気で考える。
いろいろと検討した結果、若い頃から活字に親しんでおり、直近でもタクシー会社の労働組合等で新聞記事を書いていた影響もあり、WEBライターをすることに決めました。
最初にクラウドワークスやランサーズに登録し、反響を待ちましたが、何も実績のない私に仕事をくれる人はいなかった。
そこでプロフィールを大幅に見直し、最初は単価の安い仕事を請け負って徐々に価格を上げていく戦略に転換しました。
この作戦は成功し、最初は文字単価0.4円、つまり5,000文字書いて2,000円の報酬からスタート。
最初に得た収入は、月間で記事2本書いて3,000円でした。人生初の副業で得た収入にこの上ない喜びと充実感!
ここに、私のWEBライターとしての記念すべき第一歩が記されました。
「私にもできた!この経験はきっと何かの役に立つはずだ!」
そう考えて少しでも良い記事を書こうと奮闘。
ここで、SEO対策の重要性、文章を構成する見出しの重要性などWEBライターとして必要なスキルを習得する事ができました。
その後仕事を増やして自分の作品を公開することで信頼を得て、徐々に単価が上がっていきました。
最盛期には3件の仕事を請け負って毎月7本~8本の作品を納品し、月の収入も5万を超えるまでになった!
しかし、理由は不明ですが仕事は長く続かず半年ほどで契約終了する仕事が多くありました。
仕事が激減する中で私の仕事も途絶えてしまい、その後新たな仕事を獲得することは出来ず。
そのため、別の副業を探そうと考えるに至ります。
※WEBライター稼働時の記事
40代の転職は厳しい 成功の秘訣と転職に有利な資格を徹底分析
30代で転職を成功させよう 未経験転職や有利な資格を徹底分析
Twitterへの挑戦
それまでの私は、仕事の休憩時間や通勤時間等にスマホゲームで遊んでおり、この時間を何か有効活用できないかと考えました。
そこで思いついたのがTwitterの活用です。2020年の3月から本格的に稼働しました。将来的にブログ読者になってもらい、SEO対策以外での集客をしたいと。
当初は1,000人のフォロワーを作ろうと考えていましたが、その目標は約1か月ですぐに達成されました。
そこで次は10倍の10,000人フォロワーを目指すことに決定。
アカウントを2つ同時並行的に運用し、それぞれで10,000人のフォロワー、つまり2万人を目指していきたいと目標を定めました。
簡単にはいかない目標ですが、努力し続ければ可能と信じて日々Twitterに全力投球。
開始から3か月後に3,000人、6か月後に5,000人と順調にフォロワーが伸びていく過程がとても楽しく、充実していました。
そんな中でも決して独りよがりの記事を投稿せず、需要があって皆が元気になってくれる内容を強く意識する。
そして、フォロワーの記事に返信することで互いの理解と信頼関係を深め、ともにフォロワー1万人を目指す仲間、同志が増えていく過程がたまらなく好きでした。
片方のアカウントは開始約1年で10,000人フォロワーを達成し、もう一方のアカウントも9,600人を超えて間もなく達成します。
これに加えてマイクロソフトが運営するビジネス系SNS「LinKtIn」にも挑戦し、こちらも9,000人を超えて10,000人目前!
今年の目標としていずれのアカウントも10,000人を達成し、合計30,000人の繫がりを目指して現在も活動しています。
この年齢になっても、壁にぶつかりながらも創意工夫で一つずつ乗り越えていき、成長している実感を感じられることが、たまらない!
中高年になって諦めるのではなく、日々努力と改善を繰り返すことで挑戦していけることはとても嬉しいです。
その先へ~中高年の挑戦
2021年の3月でTwitterのフォロワー数が片方で10,000人を超えたため、何か違うことをしたいと考えた私は、Twitter運用について再度学びなおし、現在は新たな挑戦をしています。
現在49歳で50歳目前ですが、中高年でもTwitterで活躍できる姿を体現し、その挑戦する姿勢を多くの人に示し、教えていきたいと考えるようになりました。
今年に入って定めた新たな方針です。
更にTwitterでは、中高年で共に頑張る仲間を作るべく動きだし、それぞれの投稿に対していいねをし合う「いいね部屋」を稼働させようと準備中。
そして自身を再度見つめなおし、最終的に何処を目指すかを改めて考えてみました。結論はTwitterで成果を出すことで、自らの考え方や生き方を何らかの形で残し、生きてきた証としたい!
つまり、自身で書籍を出版し、これまでの実績や生き方、考え方などを本としてまとめ、困っている人の役に立ちたいという目標を新たに設定しました。
まだ何も形になっておらず、夢の達成には程遠い状況ですが、最後まで諦めず挑戦していきたいと感じています。
現在はこれまでのTwitter内容の発信内容を改め、自らの生き方を恥も外聞も捨てて全てさらけだし、共感を得られるかどうかを実験している段階。
方向性は見えているので、あとは迷わずその目的に向かって突き進むのみです。
人は何歳からでも挑戦できると思います。
世間では50歳を目前にした人は、リストラ対象となるなど会社から疎まれ、あと数年もすれば役職定年などで年収も下がる一方。
「これまでの会社員人生は何だったのだろうか?私は何の為に一心不乱に仕事に打ち込んできたのだろうか?」そうなるのが私は嫌でした。
だからこの年齢からでも挑戦します。そうすることで共感を得られるか?需要があるかはわかりません。
しかし日々戦略を練り、努力と検証、改善を繰り返し、何としても形となるよう日々奮闘していきます。
私と同じような境遇の方もいらっしゃるのではないでしょうか?
私と一緒に何か1つの夢に向かって挑戦し、その姿勢を発信してみませんか?是非宜しくお願い致します。
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